宇佐神宮の話

宇佐神宮八幡神についてサライ2014年1月号の記事より抜粋 ネタとして使えないのも含むけど整理前のデータとして
神宮の記録の宇佐八幡御託宣集から
6世紀後半宇佐の地に3歳の童子が立ち 16代誉田 天皇  広幡 であると告げた
(神功天皇の皇子 応仁天皇)ほむたの すめらみこと の ひろはた
  
別府大学 飯沼賢司教授 は続日本書紀に注目し
八幡神の名は古事記 日本書紀には記述がない 続日本書紀の737年天平9年に記述がある
豊前の国(大分県北部)は大和朝廷の西の境に位置する。大隅国(鹿児島)で隼人の反乱がたびたび起こり豊前から征隼軍が派遣される、その際八幡神は八流(やつなが)れの幡として降下する。国境での戦いの神として征伐軍の守り神となった。
隼人との戦いでは敵味方多の死傷者がでたため、「隼人ら多くの殺したる報いに放生会を修すべし」と託宣した。・・仲秋祭に行う。放生会は殺すなかれという仏教の戒律に基づく。
宇佐八幡が初めのころから仏教的性格を持っていた事例 天応元年781年朝廷から八幡大菩薩の神号を贈られる。のちに武将が八幡大菩薩の幟(のぼり)をあげ、南無八幡大菩薩と唱えながら戦場を駆け巡る。

奈良時代後半の御神託事件・・神託の威力を示すもの・宋廟へと地位を高めたことが分かる事例
時の女帝称徳天皇718-770は寵愛する僧弓削の道教を政治の中枢にとりたてた。769年大宰府の役人をしていた道教の弟らが「道教皇位につければ天下泰平ならん」という宇佐八幡の御神託を天皇に届けた。確かめるために宇佐に和気清麻呂を派遣、しかし清麻呂が持ち帰った御神託は期待に反し「国始まって以来、臣下が皇位についた例はない。皇位にふさわしい皇統から即位させよ」と。怒った道鏡は遠流に処したが翌年称徳天皇崩御道鏡は失脚し、清麻呂は都に復帰し、桓武(かんむ)天皇の平安遷都の折に造営大夫として尽力した。
天皇制の皇位伝承者は皇統から選ぶとの流れを伝えるもの

*続日本書紀 697年から791年までの編年体史書