六郷満山と峯入り

2013/3/21 六郷満山についての講座を受講した際のメモ、個人の記録ゆえ一部 聞き違い勘違いもあるかと思われます。ご理解ください。

六郷満山とは
 安岐、武蔵、国東、国見、田染、来縄、の6つの地方と 神社仏閣を含めて言う

宗派について
 天台宗が中心、その他は禅宗 禅宗は後に武士の支配者が主に信仰したため広まった。

天台宗
 妙法蓮華経法華経)を根本経典とする天台教学に基づく。天台教学は中国に発祥し、
 入唐した最澄伝教大師)によって平安時代初期に日本に伝えられた。

宇佐八幡宮との関係(備考2)
 宇佐八幡宮で法華八講が行われている、法華経の内容を議論するもの 神社でありながら法華経の内容を議論する場がある
 最澄が唐へ向かう際 16次遣唐使一行として804年7月九州出発、戻り(備考2) 宇佐神宮が朝鮮への道筋をつくった。=道中の主なところに、最澄が無事 唐へつくようにいろいろと 配慮・協力をするよう指示を出し無事唐へわたり、また帰ることができた。当時の宇佐神宮の支配影響力の大きさがしのばれる。
 日本にとって唐の文化・情報は最先端であり、それを知ることは重要なことで、宇佐神宮としてもそれを支援すべきことだったと思われる。なお最澄らが滞在中に書写した経典類は230部460巻。
 最澄宇佐神宮の支援の、恩がえしとして法華経の内容を議論する法華八講を 宇佐神宮で行った・・先端情報の発表・研究の場

 その縁で 宇佐神宮と六郷満山の天台宗とは深い関係にある。
 1000年以降 比叡山天台宗のトップが六郷満山のトップをかねている。

六郷満山 開祖 仁聞菩薩
六郷満山は 718年 仁聞菩薩が 開祖といわれている、宇佐神宮 八幡神の生まれ変わりともいわれており、仏教では八幡大菩薩といわれる実在は不明で、開祖となる人たちの総称ではないかともいわれている。

六郷満山といわれははじめたのは
 江戸時代といわれているが定かではない。

国東の地が、六郷満山としてなぜ栄えたか
古くは姫島に黒曜石(ナイフとして使える貴重なもの)がでる重要な地であった。
 朝鮮へつながる玄界灘を一望し瀬戸内航路を押さえる拠点であり、都から 人を送るにあたり、当時の読み書きができ、知識のある僧侶を送り込み、諜報活動などさまざまな活動をしたと思われる。瀬戸内を見下ろせる各所にお堂や、一望できるところに近い場所に寺ががある。 険しい山に上がり、状況を把握し、のろしなどで伝えていたのではないか。

日本は 当時最先端技術だった 峨眉山、五台山の水路技術を導入したかった。その技術を 国東の地に展開し試してみたのではないか。国家的な超機密事項なため、文献は残ってないとも思われる。こういった先端文化を伝えるのに、文献は機密が漏れるリスクがあり、伝承的なことで残っていると思われる(中央政府であれば文献は残す価値があるが)
同じように 国東半島で 日本で始めて 砂鉄から鉄を作ったといわれている。当時の超先端技術をこの地で試した事例と思われる。

神仏習合
 国東・大分は中国や、朝鮮を経由したり、いろんな文化が流れ込んでおり、それぞれの良いところを取り入れ、独自の文化へと変えていく柔軟性がある。柔軟性は日本人の特性ともいえる。旧来日本の文化は多神教からなっており、仏教も神のひとつとして認識される下地があったため、神仏習合となっていったと思われる

今も人々の生活に生きる六郷満山文化
 六郷満山の神仏習合を代表とするさまざまな文化、お祭りなど、国東半島の人々の生活に溶け込んで今も生きている。鬼会や・事例は・・・

峯入り
 昭和36年に復活させたもの、各巡礼箇所で参拝するのが目的で 復活させる際4日間150キロでおこなったもの。以後10年ごと開催しtている。本来の峰入りは183ヶ所をすべて巡礼=参拝すること。期間は20から30日 滞在型で 数日あるところに宿泊しそこをベースに回れるところでお参りをし、また次の滞在場所に移るもの。あくまでも巡礼お参りをするのが目的で本来ルートは定まっていない。よって現代に復活させたものがイメージされている定まったルートを歩き通すのが目的ではない。
 
 明治政府の発した太政官布告 寺院の財産がとりあげられ、仏教と神教の分離、民衆の廃仏毀釈により大きく寺院の力が衰えてしまった。(新政府にとって寺院の力は恐怖であった) これにより、本来の峯入りは途絶えてしまった。

天台宗比叡山千日回峰行との比較
 千日回峰行は100日回峰行を終えたものから選ばれたものが許される行、7年にわたり、徐々に力をつけステップアップしていく仕組みである。比較し 現代の峯入りは短期間でいきなり120キロを超える道をあるく、このため国東の峯入りはいきなり120キロ歩くので無謀との声もある。

 参考 比叡山千日回峰行 ・・各種文献をご覧ください。抜粋しておきます。
無動寺谷で勤行のあと、深夜二時に出発。真言を唱えながら東塔、西塔、横川、日吉大社と二百六十箇所で礼拝しながら、約30キロを平均6時間で巡拝する。1〜3年目は年100日、4〜5年目が年200日の修行となる5年700日の回峰を満行すると「堂入り」が行なわれる[4]。入堂前には行者は生き葬式を行ない、無動寺谷明王堂で足かけ9日間(丸7日半ほど)にわたる断食・断水・断眠・断臥[5]の行に入る。堂入り中は、明王堂には五色の幔幕が張られ、行者は不動明王真言を唱え続ける。毎晩、深夜2時には堂を出て、近くの閼伽井で閼伽を汲み、堂内の不動明王にこれを供えなければならない。堂入りを満了(堂さがり)すると、行者は生身の不動明王ともいわれる阿闍梨あじゃり)となり、信者達の合掌で迎えられる。これを機に行者は自分のための自利行(じりぎょう)から、衆生救済の化他行(けたぎょう)に入る。6年目はこれまでの行程に京都の赤山禅院への往復が加わり、1日約60キロの行程を100日続ける。7年目は200日ではじめの100日は全行程84キロにおよぶ京都大回りで、後半100日は比叡山中30キロの行程に戻る。満行すると「北嶺大行満大阿闍梨」となる。延暦寺の記録では満行者は47人である。またこの行を2回終えた者が3人おり、その中には存命中の酒井雄哉大阿闍梨も含まれる。

現代の峯入りの課題
 本来の趣旨は各所をすべて巡礼し、参拝すること。歩きとおすことが目的との誤解が生じている。イベント的なものとなっているのでは?との声もある。本来の趣旨を理解していただき、峯入りに参加してもらうことが大事。

餞別とは 
 道々にお地蔵さんがまつられており、道中を守ってくれている。お地蔵さんにお供えをしてもらうためのもの。前掛けはお供えのお団子で汚れないようにとの心遣い。

険しい山道に仏さんお地蔵さんがまつられている
 山の上から海を見張るため・のろしでの伝達に峯の上ったのかもしれない。 道中を見守ってくれるもの。いろんな意味で祭られていると思う、願掛け、お礼。 

くにさきの山は 単なる山歩きのひとつとしてとらえず、各所のお寺・仏になどに巡礼することを大事としたい。

以下 備考は自分の追記です
(備考1)14次遣唐使と同行し渡る 全四船 最澄は第2船に、空海=弘法大師遣唐使がのった第1船に、第1船は海賊の疑いをかけれられ一時拘留されている。また他の2船は難破している。
(備考2)宇佐八幡宮
 八幡・・多くの秦 とも読める、宇佐は朝鮮からの技術集団が移住してきた地で、さまざまな先端技術をもっていたといわれている。そのため、時の政府がたびたび協力を仰ぎ、南方征伐等で完全に神格化されたものと思われる。出身地である朝鮮との関係も深く、遣唐使の道筋(航海の協力を得る)ことも可能だったのではと思われる。八幡が戦いの神との位置づけは技術集団であり、武器・戦術にも長けていたためと考えられる。・・備考2は個人的な推察が入っております。